悔いなき人生の終い方に思い巡らせ、 今をどう生きるかにつなげてみる。

先月下旬、母方の叔父が亡くなりました。野心家で自信家。とにかくワンマンな性格で、その言動に家族や親戚が戸惑うことも多かった人でしたが、茶目っ気もあり、悪口は飛び出しても、心底憎まれることはない、不思議な人でした。

 

特定郵便局の局長を定年まで立派に勤めあげ、現役を退いてから十余年が経過していましたが、通夜と葬儀には、300人以上の方にご参列頂けたようです。叔父の人望の厚さを物語る出来事でした。

 

しかしながら、叔父の晩年は、必ずしも思い通りのものではなかったと思います。事業欲が強かった叔父は、定年後もいくつかのビジネスを手掛けましたが、期待した成果には至りませんでした。過労で脳疾患を患った後は、長らく不自由な生活を強いられました。

 

亡くなる数日前、憔悴しきった叔父を見舞ったその夜のこと。何気なく本棚を眺めていたら、一冊の本に目が留まりました。

1000人の死を見届けた終末期医療の専門家が書いたー死ぬときに後悔すること25(大津秀一著/致知出版社刊)』という本です。著者は、多くの終末期の患者さんを看取られた経験がある現役の緩和医療医。終局の際、自らの思いを吐露する患者さんとのやりとりをもとに、この本を執筆されました。数年前、刊行当時に話題になって購入しましたが、ほぼ積ん読状態になっていた本です。

 

ふと、病床にある叔父に後悔はあるのだろうかと思いました。手に取り、適当に頁をめくると、『自分のやりたいことをやらなかったこと』という見出し。本文の一文に目が留まります。『自由に生きても、忍従で生きても、それほど文句を言われる量は変わらない。だとしたら、自由に生きたほうが、自分のためになるのではないか。』

 

また、こんな文章も。『自由に生きた人生は皆から尊敬はされないかもしれないが、愛される。そして心地よい清涼感を残すものなのである。』ここまで読んで、「あ、私が見えていた叔父の印象そのままだ。」と思えたのでした。結果はどうあれ、叔父にはやり切った感があったのかもしれません。

 

さて、私の人生。25項目の『後悔』に思い巡らせ、今の生き方を見つめ直しています。叔父から貴重なヒントをもらった気分です。