「本は自分の人生を映しだす鏡」。そして想いを伝え合うことの効能。

秋が深まりつつあります。

SNSなど覗いていると、スポーツやお食事、イベント参加など、思いのままに楽しまれている皆さんの様子が映し出されています。ウィズコロナも、ようやく以前の日常生活に馴染みはじめたようです。

 

私の秋はもっぱら「読書」です。過ごしやすい夜が続いていて、頁をめくる指が止まりません。今は、司馬遼太郎先生の歴史長編小説『胡蝶の夢(新潮文庫刊/全四巻)』が面白くて、ついつい夜更かしをしてしまいます。江戸幕末期の混乱を、さまざまな蘭方医たちの視線を通して描いている物語で、魅力的な登場人物の描写のみならず、当時の細やかな世情や政情を窺い知ることが出来る文献としても、存分に楽しめる作品です。

 

日頃、読書に親しまれている皆さんは、その愉しみをどのように感じているのでしょうか。私の場合は、自分の想像力や解釈を、活字のみから大いに発揮出来る点が大きいと捉えています。映像など、受動的に受け取る感覚のイメージには、どうしても物理的制約があり、それを超えて想像を飛躍させることは困難です。

 

ほんの数文字で構成された言葉や、一行程度の文章に、落雷で打たれたかのような衝撃を感じたり、途方もない癒しや多幸感を覚えた人も多いでしょう。そのような体験を味わった人は、以降の読書にも同様の出逢いを求めます。

 

翻訳家である向井和美さんの近著『読書会という幸福(岩波新書)』は、読書との接し方について、更なる可能性を示唆してくれています。

 

幼い頃の彼女は、常にご両親の不仲に悩まされていたそうです。その現実逃避先に選んだのが「読書」。本はひとりで読み、孤独のうちに味わうもの。そのような内向的な読書の姿勢を変えてくれたのが、二十代後半の頃、恩師に誘われて参加した、古典文学の読書会でした。

 

一冊の課題本をひと月掛けて読み、持ち寄った感想を発表し合う。最初は戸惑っていた向井さんでしたが、本を通じて他人とつながり、感想を口にすることで、自分の中で漠としていた物語への考え方や感情が、鮮明な輪郭をもって立ち現れてきたといいます。それは時に、ご自身の生き方に対する明確なメッセージともなりました。

 

「わたしがこれまで人を殺さずにいられたのは、本があったから、そして読書会があったから」。この、切実すぎる彼女の告白が、すべてを物語っているようです。